top of page
  • chukyokyokai

「選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」

更新日:3月14日

コロサイの信徒への手紙3章12~17節 

創世記37章18~28節


コロサイの信徒への手紙3章12~17節 創世記37章18~28節 今日の旧約聖書は創世記のヨセフ物語です。父親であるヤコブは、息子たちの中で年をとってから生まれた幼いヨセフを特別に可愛がりました。兄たちは怒りを覚え商売人に売り渡して、ヨセフはエジプトに連れて行かれます。兄たちは、父ヤコブにはヨセフは死んだと告げ、ヤコブは、死にたいと嘆くばかりでしたが、事の発端はヤコブがヨセフを特別に可愛がったことでした。偏った愛、嫉妬、憎しみによって家族はバラバラになってしまいました。とても神様がいるとは思えないような家族の有様です。 しかし、このバラバラになった家族が再び一つになります。ヨセフは様々な困難を乗り越え、エジプトの大臣にまで出世します。飢饉が起こりヤコブの家族が困った時、兄たちはエジプトまで旅をして食糧を分けてもらいに行きます。エジプトには大臣になったヨセフがいました。兄たちはヨセフが大臣であることに気がつきません。ヨセフは兄たちと対面をした時、なつかしさのあまり声を上げて泣いて身をあかします。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」 神などどこにもいないように思えるような家族、お互いの感情をぶつけあって、傷つけあって、時は殺意さえ抱いて離れ離れになっていた家族が、長い年月を経て一つにされました。そこには人間の目には隠されていた神様の計画があり、導きがありました。

 わたしたちは、人生の多くの時間、多くの場面で神から離れて生きています。教会に通って、神様を信じていると言っても、まるで神がいないかの如く生活をしているように思えることがあります。しかし、本当はそうではない、ということが日曜日の礼拝において示されます。普段は目に見ることのない、気がつくことのない、神様の愛、十字架につけられたイエス・キリストの愛によって導かれているのだ、ということが示されます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とコロサイの信徒への手紙に記されています。あなたがたがこの一週間どのような道を歩んだとしても、神様がいるとは思えないような生活、社会の情勢、家庭の問題、自分の不信仰、しかし、そのようなあなたがたこそ、今、礼拝に招かれて、教会につながっている。そこには変わることのない神の愛と導きがあります。わたしたちが最後にたどり着く所、最後の拠り所は、教会であり、礼拝です。既にイエス・キリストの十字架による罪の赦し、神様の大きな愛と憐れみの中に置かれ、導かれていることを感謝したいと思います。

(2023/09/17)



bottom of page