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「わたしたちはだれのところへ行きましょうか」ヨハネによる福音書6章60~71節

更新日:3月12日

多くの弟子たちはイエス様の話に躓きました。弟子たちはなぜ躓いたのでしょうか。イエスは仰られました。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。あなたのために命を捨てる。それほどの思いで、あなたの罪を赦す、あなたのことを愛する。そのことが弟子たちには伝わりませんでした。弟子たちは言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」イエスは、ここで食べて空腹が満たされるパンの話をしているのではなく、永遠の命へと導かれる命のパンの話をしています。言い換えれば、目に見える人間の世界の話ではなくて、目に見えない神の世界の話をしている。弟子たちは、目の前のパンを求めていましたが、イエスは目に見えない命のパンの話をしています。

イエスの話を弟子たちは理解できませんでした。それは皆さんも生活の中で感じる場面があると思います。教会に行っているということを理解されない。家族や友人にも理解されない。キリスト教人口はどんどん減っています。キリスト教はもう時代遅れの宗教なのでしょうか。わたしたちは世の多くの人々が関心も持とうとしない、空しいことに時間を注ぎ、労力を費やしているのでしょうか。

多くの人々は教会から離れていきます。あなたがたも離れていきたいか、とイエスは弟子たちに問いかけておられます。わたしたちは何と答えるでしょうか。ペトロはこのように答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」わたしたちは、今も昔も変わることなく、教会におられるイエス・キリストのもとへ行きます。他の人が離れていく、世の多くの人たちが関心をもたない、そのようなことは全く関係ありません。ここにイエス・キリストがおられる。ここに永遠の命があり救いがある。それこそ教会の他には見出すことのできないものである。誰が何と言おうとわたしたちはイエス・キリストのもとに行く。それくらい大切なものが教会にはあります。わたしたち人間が生きていく上で、これはなくしてはならない、というものが教会にあると信じているから、そこに信徒が集められ、そこに牧師は遣わされます。

わたしたちは暇だから教会に来ているわけではありません。毎週、毎週、日曜日、教会に来るということは人生の相当な部分をここにかけています。ここにわたしたちの救いと希望がかかっている。そのように信じて礼拝をささげています。代々の信仰者たちは、折が良くても悪くても、迫害を受けても、戦争に時代に教会が破壊されても、それでも礼拝を捧げ、そして、御言葉を伝えてきました。「わたしたちは、だれのところへ行きましょうか。」わたしたちの行く所は、イエス・キリストのおられる教会しかありません。   2024/03/03



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