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「わたしがあなたがたを愛したように」

更新日:3月14日

ヨハネによる福音書15章11~17節 他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカにも最後の晩餐の出来事は記されていますが、最後の晩餐での説教が記されているのは、このヨハネによる福音書だけです。イエスがこの最後のメッセージを語られたのは弟子たちが喜びに満たされるためでした。しかし、この後イエスは捕えられ、弟子たちは身の危険が迫って来ると見捨てて逃げてしまいます。そして、イエスは十字架につけられ殺されてしまいます。弟子たちは喜びに満たされませんでした。なぜ、イエスは喜びで満たされるなどと語られたのでしょうか。  イエスは自分が捕えられた後、弟子たちも迫害を受けて、苦難の道を歩まなければならないことを予告されています。そして、弟子たちがどこにも救いがない、イエスもいないと嘆き悲しむ時が来るのですが、その時のためにこそ、あなたがたは喜びに満たされる、とイエスは教えておられます。 わたしたちもまた試練の中に置かれます。教会に来ることができなくなる日も来ます。その時には、さみしさや悲しみに耐えることができず神もいなければ救いもない、などと嘆く時が来るかもしれません。しかし、すべてのものを失っても、何もできなくなっても、わたしたちには帰ってくる所があります。死を前にして肉体も衰え希望を失う。そのように思えることがあったとしても、それでも、最後、わたしたちは教会に帰ってくることができ、神様の愛と罪の赦しのもとへと導かれます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」イエス・キリストは、この言葉を、愛する弟子たちに、わたしたちに残してくださいました。他のものは全て失ったとしても、イエス・キリストの愛だけは消えることはありません。死と悲しみが支配しているそのただ中にあって、復活の希望と愛する人との再会の喜びが与えられます。イエス・キリストとつながり、教会とつながっているからです。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」このたとえを語られた後、イエスは、互いに愛し合いなさいとお教えになりました。教会に呼び集められているわたしたちは、悲しみも喜びも共にして、最後まで教会につながり続け、最後の礼拝(葬儀の礼拝)を一緒にささげて、お互いを神様のもとへお送りする群れとさせていただきたいと願っています。それが「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という、イエスの呼びかけに対するわたしたちの応答となるはずです。(2023/05/7)




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