
日本基督教団中京教会
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あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。
(ヨハネによる福音書20章21節)
説教とは…
プロテスタン ト教会において説教(聖書のお話)は礼拝の中心部分です。その日の聖書箇所を通して、イエス・キリストによってもたらされた神様の愛、罪の赦し、わたしたち人間が生きて行くために欠かすことのできない希望が語られます。礼拝の中で、神様の愛を受けて、神様の愛を携えて、希望を抱いて、それぞれの場へと遣わされたいと願っています。
説教の録音
2026/03/01 受難節第2主日
マルコによる福音書 3章20~30節
「悪との戦い」
2026/01/04 降誕節第2主日
ルカによる福音書 2章41~52節
「神と人とに愛されて」
説教要旨
2026/04/26(日)復活節第4主日
「神の栄光」 ヨハネによる福音書13章31~35節
栄光という言葉が繰り返し出てきます。イエス・キリストはこの言葉を、弟子たちとの最後の食事、別れの席で語られています。この後、イエスは捕らえられて十字架につけられて殺されてしまいます。その前に栄光について語っておられます。栄光とは一体何でしょうか。イエスは自分が死ぬことによって神の栄光が現わされる、と仰られました。イエスは十字架の上で殺されるのですが、それで神の栄光は消えることなく、むしろ世界中に伝えられていきました。イエス・キリストが十字架の死より甦られていることを世界中の教会が証しをしたからです。そして、わたしたちの所にも神の栄光は届けられ中京教会は128年間、導かれてきました。
先週は春季墓前礼拝が八事霊園で行われました。墓前礼拝は中京教会の墓地に埋葬された方々を覚えて礼拝をささげます。埋葬者の名簿には256名の方々の名前が残されています。墓前礼拝ではお一人一人の名前を読み上げます。教会につらなった方々、クリスチャンの方、未信者の方お一人お一人によって、中京教会の歴史が支えられ守られてきました。言い換えれば、神様が神の栄光を現すためにお一人一人を教会に導いて下さった、そういうことが言えるかと思います。神の栄光はどこに現わされるのでしょうか。わたしちは、どこで神の栄光であると知ることができるのでしょうか。それは、わたしたちがいるこの場所、教会に他なりません。教会につながることによって、これは神の栄光である。これは神の愛である。そのことにわたしたちは目が開かれます。
この度、中京教会は初めて東区の文化のみちのイベントに参加しました。企画したスタッフの方々はとても喜んでくれました。中京教会が参加すること、この地域の発展に貢献することを期待し、好意的に受けとめています。わたしたちは地域の方々に見られています。この教会は何をしているのか。どういう人たちが集まっているのか。キリスト教っていったい何なのか。
このベントへの参加を通して、わたしたちは教会に足を踏み入れて下さった方々に、よくいらっしゃいました。教会はこういう所です。教会には神様の愛があります。教会には変わることのない愛と真理があります。罪の赦しがあり永遠の命があります。言葉では説明することができなくても、訪れた人たちを包み込むような、教会ならではの温かさや安らぎ、なつかしさや親しみを感じていただき、伝えていきたいと願っています。
信仰の先輩方、中京教会の歴史に思いを巡らせ、わたしたちもまた神の栄光を現すために今用いられ、使命が与えられていることをしっかりと受けとめたいとおもいます。128年の今までの歴史がそうであったように、わたしたちもまた、折が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え、この地域において、神の栄光を現す群れとさせていただきたいと思います。
かっているということを心に留めて、世の人々にイエス・キリストがこの世界に共におられること、世界は決して人間の罪や悲しみに終わるものではないということを伝えていきたいと思います。
2026/02/22(日) 受難節第1主日
「荒れ野の誘惑」 マルコによる福音書 1章12~15節
受難節の第1主日は荒れ野でのサタンの誘惑から始まります。サタンの誘惑を受ける前イエスは洗礼を受けておられます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。同じようにわたしたちも洗礼を受けて神から受け入れられ、そこから信仰生活は始まります。洗礼を受けて信仰生活を始めた者はどういう道を歩むか。荒れ野でサタンの誘惑を受けることになります。サタンの誘惑とは神から引き離そうとする力です。神以外のものに心を奪われ、心も言葉も行いも神から引き離されてしまうことです。それは生涯最後の時まで続きます。もう教会なんていかなくていい。神様なんて信じなくていい。神様なんて本当はいないのだ。そのような誘惑は生涯続いていきます。そして、そのような思いを抱いて離れて行く人は少なくありません。
荒れ野の誘惑は旧約聖書における出エジプトの出来事を思い起こさせられます。モーセはイスラエルの民をエジプトから脱出させました。イスラエルの民はエジプトの王ファラオの苦しみから解放されて喜びました。しかし、その後40年もの間、荒れ野をさ迷うことになります。これは神から引き離そうとする力、誘惑と戦い続ける旅でした。イスラエルの民はこんな過酷な旅に出るのではなかった。お腹が空いた、のどが渇いたとモーセに不満をぶつけます。モーセはイスラエルの民の不満をうけとめながら40年導きました。なぜ40年もの間、荒れ野の旅を続けなければならなかったのでしょうか。
40年もの間、旅を続けた後、この旅を振り返ってモーセは言いました。「主はあなたを苦しめ、餓えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。試練が襲ってきた時、悪魔の誘惑を受けた時、最後わたしたちの拠り所となるのは神の言葉です。そして、神の言葉は教会でしか語られません。礼拝でしか聴くことはできません。神の言葉をいただいて新しい命を受けて、そしてわたしたちは、それぞれの場へと遣わされて行くのです。
この世界は神がいないように思える世界です。世界を知れば知るほど神などいない、教会など何の役にも立たない。あってもなくても同じである。わたしたちも、この世的な価値観に流されてしまいそうになります。しかし、イエスが40日もの間サタンの誘惑を受けた後、最後は神の言葉によって誘惑を退けられました。またモーセとイスラエルの民もまた荒れ野の40年の旅を終えて、最後は神の言葉へとたどり着きました。わたしたちも、イエスが尊い命を引き換えに、残してくださった神の言葉を受け止め、教会に留まり続けることによって、この世のありとあらゆる誘惑、神から引き離そうとする力に負けないように、歩んで行きたいと思います。
2026/01/20(日) 降誕節第5主日
「権威ある新しい教え」 マルコによる福音書 1章21~28節
人々はイエスの教えに非常に驚いたとあります。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからです。では権威ある者としての教えとは何か。それは汚れた霊を追い出すことができる力を伴った教えです。イエスが伝道を始める時にこう宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これからは神がわたしを支配して下さる。では、その前は何が支配していたというと汚れた霊です。汚れた霊とは、ひと言で言えば、神から引き離そうとする、ありとあらゆる力です。汚れた霊、悪霊は、いかにもこれが悪霊だという風に、わかりやすくはやってきません。むしろこれなら大丈夫だろう、これだったら心配ない、そのように信頼させて知らないうちに悪の道に引きずり込んでいくのが悪霊の力です。
だれもが平和を望んでいるのに戦争を止めることができない。悪いとはわかっていても辞めることができない。いじめも差別もよくないと、誰もが分かっているのになくならない。これは聖書の言葉でいうと、今の世界をおおっている悪霊と言ってもよいと思います。イエスは悪霊ではなく神に支配されなさい。神に立ち帰りなさい。悔い改めて福音を信じなさい、と仰られています。わたしたちは神様か引き離そうとする悪霊の力を断ち切って教会に導かれた。わたしたちは悪霊ではなく、神に導かれています。
パウロはロマ書の中で、神に従いたくても従うことのできないみじめな自分の心を描いています。善を行おうと思っても実行できない。それどころか悪を行っている。自分でも自分をどうしていいかわからない。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」そこまで追い詰められて、そしてそこで突然、最後、感謝の言葉が出てきます。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」
自分ではどうすることもできない不安や罪、汚れた霊に支配され、病に苦しみ、生きていくことに希望が抱くことのできない人々、そういう人たちの所にイエスは近づいてこられました。そういうあなたがたの所に神の国は来ていると宣言されました。汚れた霊に取りつかれたような者であっても、イエスの権威ある新しい教えによって、すでに神の国に招かれ、新しい一歩を歩み始めることができます。権威ある新しい教えは、復活のキリストと共に今も生きている。悪霊は追い出され、神の国がもたらされる業は今も続き、教会はその業を委ねられています。神の権威ある新しい教え、イエスの言葉は、既にわたしたちのもとに届けられている。神の国、神の愛はすでに届いている。世の多くの人たちが見失っているもの、わからなくなっている大切なもの、神様の愛をわたしたちはこれからも伝えていきたいと思います。