
日本基督教団中京教会
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あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。
(ヨハネによる福音書20章21節)
説教とは…
プロテスタント教会において説教(聖書のお話)は礼拝の中 心部分です
その日の聖書箇所を紐解き、イエス・キリストの救いの業について毎週様々な角度から語られています
説教の録音
2024/06/09 花の日・こどもの日礼拝
マタイによる福音書6章28節
「神様の愛」
2024/05/19 ペンテコステ礼拝
使徒言行録2章1~11節
「一同は聖霊に満たされた」
説教要旨
2025/09/21(日)聖霊降臨節第17主日
「心も思いも一つにして」 コリントの信徒への手紙一 1章10~17節
教会はイエス・キリストのからだと呼ばれます。また教会の頭はイエス・キリストという言い方もします。しかし、コリントの教会の人たちは、目の前に見える人間に目を向けて、お互いに裁いたり、非難したりして、イエス・キリストが見えなくなっていました。教会も人間の集まりです。毎週、集まっていると、仲のよい人、そうでない人、というものが知らず知らずのうちに形成されていきます。人間関係が次第に単純ではなくなってきます。初めは見えなかった人間の罪、教会の罪に気づくようになります。「教会では人を見ないで神を見ること。人を見るとつまずく。」「人につながるよりも神につながりなさい」そのようなことは繰り返し言われてきました。教会は一人一人が神とつながる所です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。」とイエスは弟子たちにおっしゃられました。しかし、わたしたちは、どうしても人間関係の方が強くなる傾向があります。
たとえば牧師が教会を辞める時、人間の思いが激しくぶつかりあいます。その牧師にやめてほしくないグループと、辞めてほしいグループに分かれることがあります。感情的になり、平常心を失い、信仰もどこかに吹き飛び、教会の頭であるイエス・キリストのことなど忘れ去られます。人間の争いと怒りだけがその場に残ります。まるでイエス・キリストが十字架につけられる時のような有様です。そのようなことはパウロの時代から今に至るまで繰り返されてきました。教会とは名ばかりに思えます。そのような所にも神はおられるのでしょうか。復活の主イエス・キリストはおられるのでしょうか。
パウロは多くの問題を抱えている、人間関係のトラブル、意見がぶつかり争ってばかりいるコリントの教会の土台には、信仰と希望と愛があると語りました。わたしたちはこれからも目の前のことに心を奪われて、愚かな争いを繰り返すかもしれません。教会の中でも外でも牧師も信徒も繰り返し罪を犯すかもしれません。しかし、教会で起こっている愚かなこと、教会に呼び集められているすべての罪人のために、十字架にかかられたイエス・キリストがその中心におられることを忘れないようにしたいと思います。ここに教会が立っているということ、ここにわたしたちが呼び集められているということは、何よりも尊いことで、素晴らしいことです。たとえ、わたしたちがどのような罪を犯したとしても、たとえ、地震や災害によって、すべてを失うようなことがあったとしても、ここにイエス・キリストがおられる。ここにイエス・キリストがおられると信じること、その一点において、わたしたちは教会に連なり、神の恵みと祝福に預かることがゆるされています。心も思いも一つにして礼拝をささげ、イエス・キリストのからだである教会につながり続けたいと思います。
2025/8/17(日)聖霊降臨節第11主日
「人を恐れず神を畏れよ」
使徒言行録9章26~31節
サウロの回心は使徒言行録の中でも大変有名なエピソードで3回も紹介されています。熱心なユダヤ教徒だったサウロが、幻の中で復活の主イエス・キリストと出会い180度生き方が変わりました。しかし弟子たちはサウロを警戒していました。今まで自分たちの敵だった人が急に味方になると言っても信じることができない。サウロは最初、弟子たちを迫害していたからです。しかし、バルナバはサウロに主イエス・キリストが出会ってくださった。サウロは生まれ変わって我々の仲間になった、と説明してくれました。さて皆さんはどうでしょうか。今まで、さんざん嫌がらせをしたり、悪口をいったりしていた人が急に仲間になると言っても受け入れることができるでしょうか。もし受け入れることができるとすれば、どういう時でしょうか。
弟子たちがなぜサウロを受け入れたのか。それはサウロが周りの人々を恐れなかったからです。サウロを殺そうとする人がいても大胆に語り続けたからです。弟子たちは思いました。サウロは本気である。イエス・キリストを伝えなければならないという使命感、たとえ殺されるようなことがあっても止めることのできない熱意、人を恐れることなくただ神を畏れ、神に従うサウロの姿に、弟子たちは心を動かされたのだと思います。人を恐れず、神を畏れよ。人に何と言われようと自分は神から与えられた使命を果たすだけである。それがパウロの生き方であり、そしてそのような信仰が受け継がれて教会は建てられて行きました。人を恐れず、神を畏れ敬い、聖霊に満たされる所、それが教会です。世の人々は色々なことを言います。こうすればうまく行く。こんなことをしては駄目だ。今の時代こんなことをしていては教会に人が集まらなくなる。その通りかもしれません。しかし、教会に集うわたしたちが忘れてはならないことは、人を恐れないこと、人に惑わされないことです。人間の世界はこっちの方向に流れているけれども神の世界はこうではない。多くの人々はいかにもそれが正しいように言うけれども、そこに神はいるのか。それは本当に正しいのか。そのことを教会は語り続けなければなりません。
教会で行うべき第一のことは神を畏れ、敬うことす。ここに神がおられる。ここに十字架の死より甦られたイエス・キリストがおられる。このことを大胆に力強く語るために、弟子たちは説教し、そして、パウロも教会を建てて行きました。いつの時代においても、人を恐れず、神を畏れよ、という言葉は真実です。人間はいつか滅び、神は永遠だからです。わたしたちは、これからどのような時代を迎えようとも、どのような困難が降りかかってきても神の言葉を語り続け、教会を建てていったパウロのように、とこしえに変わることのない神の導きを信じて歩み続けたいと思います。
2024/5/5(日)復活節第7主日
「わたしたちを引き離すことはできない」
ローマの信徒への手紙8章31~39節
パウロは神の愛について語っていますが、それに先立って「現在の苦しみ」について語っています。人間を含めて、すべての被造物は虚無に服している。今日まで、うめき、共に苦しんでいる。この苦しみは2000年前パウロが生きたローマ帝国の時代だけのことを言っているのではなく聖書で繰り返し語られている罪の問題です。どのように生きてもうまくいかない。どこまで行っても答えがみつからない。しかし、そのような苦しみの中でもがいているようなわたしたちこそが救われてる。なぜなら、そのように苦しんでいるわたしたちのためにイエス・キリストは十字架にかかり、味方となってくださった。その苦しみの中に神様の愛があればイエス・キリストがいれば十分である。現在の苦しみの中でこそ救いがある。そのことをパウロは語っています。
コリントの信徒への手紙二には、次から次へとパウロに襲ってきた苦難について綴られています。「苦労したこともずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。…鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
パウロはこのような苦しみを通してイエス・キリストの十字架の出来事に思いを馳せ、自分は一人ではない、神が味方となってくださっている、そのように信じて教会を建て、神の愛を伝え続けました。代々の信仰者たちもまたイエス・キリストに倣い、パウロに倣い、それぞれの地において苦しみを引き受け十字架を背負ってきました。その労苦の多くは、人に知られることはありませんでしたが、代々の信仰者たちの生き様は教会の力となり、信仰となり、神の愛は伝えられていきました。
「神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」引き離すことができない、ということは神の愛から離れるなどということは原理的にあり得ない、不可能である。そういうことになります。わたしたちはしばしば躓きます。様々なことが受け入れられなくなったり信じることができなくなったりします。パウロもそのような労苦や艱難を背負っていました。にもかかわらず、その全ての出来事の背後にあるのはイエス・キリストの十字架における罪の赦しであり、最後まで残るのものは神の愛である。神様の愛だけは、わたしたちから離れていくことがない。全てのものを超えて、教会には神様の愛があります。そこにこそ、わたしたちの希望があり救いがあります。