top of page
  • chukyokyokai

人々の間を通り抜けて

更新日:2月4日

民数記9章15~23節 ルカによる福音書4章16~30節


 荒れ野の40年の旅はゴールにたどり着くことが目的ではありませんでし

た。40年もの間、嬉しい時も悲しい時も、いつも神の言葉によって導かれ

た。そのことを知らされるための荒れ野の40年の旅であったとモーセは語

っています。神の言葉はイスラエルの民、旧約聖書の歴史の中で預言者の

口を通して語られてきました。そして神の言葉が目に見える形で人間の姿

となって現れたのがイエス・キリストです。「この聖書の言葉は、今日、

あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは仰られました。人々は

驚きイエスをほめたたえます。神の言葉が語られた。なんと素晴らしい。

人々は喜んで受け入れました。しかし、イエスは仰られました。「はっき

り言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」最初は

喜んでイエスをほめていた人たちが、最後には、全員、憤慨して、総立ち

になって、町の外へ追い出しました。人々は、自分の足りないものを満た

してくれる、願っていることを叶えてくれる、そういう救いを求めていま

した。それが満たされるとうちは喜んで受け入れました。しかし、自分た

ちにとって都合の悪いことが語られると一瞬にして怒りへと変わりました。

イエスは神の言葉を語ることによって人々の罪を明らかにしました。そし

て罪と向かい合い、罪と戦い、最後は、十字架にかかり罪を赦してくださ

いました。そして、イエスの十字架の死と引き換えに、教会には神の言葉

が残されました。わたしたちは罪に囲まれ、八方塞がりの中にあって道が

開かれるとするならば、それは神の言葉、即ちイエス・キリストに導かれ

る時です。


 人々は怒りのあまり、イエスを町の外に追い出し、山の崖まで連れて行

き、突き落とそうとしました。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて

立ち去られた」とあります。ここで「間」と訳されている言葉は実は真ん

中、ど真ん中という意味です。ただの間ではなくて、ど真ん中です。人々

に追い詰められ崖に落とされそうとする時に、恐れることなく、ただ真っ

すぐ道を歩み、中央突破をするイエス。ここに神の言葉の力が示されてい

ます。


 たとえ十字架につけられて殺されても、神の言葉を語られたイエス・キ

リストは今も生きている。この福音書を読んでいるあなたがたも、敵に囲

まれても、神の言葉によって中央を突破し、神に示された道を真っすぐに

歩むことができる。神の言葉は今も昔も変わることなく語られ続け、わた

したち一人一人にその力は宿っています。困難な時代の中にあっても、神

の言葉を携えて、力と勇気と希望を与えられてご一緒に歩んでまいりたい

と思います。  2023/01/22(日)



最新記事

すべて表示

ヨハネによる福音書15章11~17節 他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカにも最後の晩餐の出来事は記されていますが、最後の晩餐での説教が記されているのは、このヨハネによる福音書だけです。イエスがこの最後のメッセージを語られたのは弟子たちが喜びに満たされるためでした。しかし、この後イエスは捕えられ、弟子たちは身の危険が迫って来ると見捨てて逃げてしまいます。そして、イエスは十字架につけられ殺されて

bottom of page