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「十字架と復活」

 ルカによる福音書 9章28~36節  イエスは、わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと仰られました。その後、祈るために、山に登られて、真っ白に輝き、モーセとエリヤと語り合いました。  モーセもエリヤも、自分の十字架を背負いました。モーセは40年もの間、荒れ野で旅を続け、折あるごとに不満をぶつけるイスラエルの民を最後まで導きました。エリヤもまた、イスラエルの王から命を狙われ、他の預言者たちも殺される中、たった一人で神の言葉を語り続けました。十字架を背負って使命を全うした彼らの行き着く先は、栄光に輝くイエス・キリストです。神様から与えられた使命を全うした者は、最後に、山の上で、栄光に輝くイエス・キリストと出会う。そのことが示されています。 ペトロはまだ十字架を背負っていません。イエスに従って歩んでいく道はまだ始まったばかりです。ペトロは、自分でも何を言っているのかわからなかったと記されています。何が起こっているのかわからないけれども「わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」とペトロは告白しています。わたしたちはそれぞれ歩む道は異なります。それぞれの労苦も、背負っている十字架も比べることはできません。躓くこともあれば、後戻りすることもあります。しかし、どのような道を通ったとしても、最後の最後には、たとえば、今日の山の上の出来事、神の栄光に包まれるイエスとモーセとエリヤが語り合っている、そういう所へと導かれます。どこまで行っても道を見失い、悩み続けるようなわたしたちが、主の日の礼拝ごとにイエス・キリストと出会うことがゆるされている。それは山の上で、イエスのもとへと導かれたモーセとエリヤの歩みと異なるものではないはずです。 十字架の先には必ず復活があります。イエスはすべての労苦と死は無駄になることはないと、三日目に甦えられ、そして教会を残して下さいました。わたしたちの歩みの先にあるのは絶望ではなく神の栄光であり復活です。教会は、十字架の絶望だけを告げるのではなく、また復活の希望だけを告げるのでもなく、十字架と復活の両方を告げ知らせています。十字架と復活は切り離すことができません。十字架があっての復活であり、復活があっての十字架です。わたしたちは罪人であるがゆえに救いがあり、救いがあるから罪人であるわたしたちも希望を抱いて生きていくことができる。モーセもエリヤが苦難の道を歩み続け、最後はイエス・キリストのもとへと導かれたように、わたしたちも教会へと導かれ、十字架から復活へ、苦難から希望へと続くと歩ませていただいているのです。

2023/03/19(日)


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